オイディプス王の世界観

quaecumque est fortuna, mea est ―Vergilius(どのような運命であれ、それはわたしのものだ―ウェルギリウス)

第1章 視座の設定 ― 目をつぶすという事

ソフォクレスの7つの悲劇には、主人公が悲惨に死んでいった場面で終わっているものはない。言い換えれば、主人公の死が告げられた時に幕を閉じているものはない。劇の構成から見ればほとんどこの事は当然の事のように見える。

ソフォクレスの7つの悲劇のうちの前期に属すると言われるものは、「二つ折り(ディプテュコン)」と言われる形を取っている。すなわち『アイアス』『トラキスの女たち』『アンティゴネ』の中では、主人公は劇の中ほどで死んてしまうが、まだ後半部分が残されている。また、その他の作品のうちの『エレクトラ』『フィロクテテス』では主人公は死なない。『コロノスのオイディプス』では、オイディプスは神に迎えられて苦痛なく死んた事が報告されている。

もちろん『オイディプス王』の中でオイディプスは死んでいない。いかにも悲惨で哀れな結末であるが、オイディプスは盲目のまま生き続けるのである。主人公がみじめに死んでそこで終わるという悲劇は、ソフォクレスのものとして伝えられているものの内にはない。それはいかなる理由によるものだろうか。

レスキーは『ギリシャ悲劇』の「悲劇とは何か」という章の中で、ギリシャ悲劇は完全に悲劇的な世界観(totally tragic world view)を我々に示しているのだろうかという問を立てている。「完全に悲劇的な世界観」とは我々の言葉で言えば「この世の全ては狂っている。人間の善行は決して報われることはない。希望はまやかしに過ぎず常に裏切られる。夜は決して明けることがない。破滅には全く意味がなく、人生は価値がない」ということだろうか。

『コロノスのオイディプス』の中でソフォクレスはコロス(合唱隊)に
この世に生まれて来ないことが最も良い。
と歌わせている(1224行ー1225行)。詩人が我々に示そうとした世界観は、このようなものであるのだろうか。レスキーの答えは「否」である。

なぜこう言えるのだろうか。筆者の課題はこの世界観についての問いを改めて問うことである。我々はおそらくレスキーと同じ答えに至ることだろう。

しかし、この問題をこの小論で扱うことはこのままでは不可能である。

ここでは問題の全体をのぞき窓のついた一つの部屋に入れてみよう。

のぞき窓から見える事項は限られている。しかし、窓の付け方によって事態の思わぬ本質が明らかになり、問題を解く鍵が得られるかもしれない。

私が持っている部屋は、ソフォクレスの『オイディプス王』である。のぞき窓をどこに置くか、私は「オイディプスは目をつぶしたが死にはしなかった」ということにしたい。この窓から方向を変えて光をさしこみ内側を見てみようと思う。

さて、オイディプスは死ななかった。この世が自分に対して不幸以外の何物ももたらさないと分かったときこそ、自らの命を絶つべきだという人もあろう。ソフォクレスは不幸の極みにいる時でも死ぬべきではないという主張をオイディプスの中に込めているのだろうか。生きていればいい事があるという楽観的人生観を示そうとしているのだろうか。神の摂理と調和したこれからは、幸福を得られると言っているのだろうか。アイアスやデイアネイラのように不名誉な生より死を選ぶのが英雄的


FC2携帯変換について
->続きを表示
◆ツール
◆設定
▲上へ
このページはFC2携帯変換によってPC向けのページが携帯電話向けに変換されたものです
Powered by FC2