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9]  それに答えてピタゴラスは次のように言ったのです。「私は人間世界は祭に似ていると思っています。というのは、祭にはギリシャ全土から大勢の人が集まって壮大な競技会が開かれますが、そこには身体を鍛えて栄光ある冠と名声を求めてやって来る人たちだけでなく、商売で一儲けしようとやって来る人たちもいます。その一方で、名声も利益も求めず、ただ見物するためだけに来る人たちがいます。彼らは生まれの良い自由な身分の人たちで、何がどのように行われているかを熱心に観察するのです。このように人々が別の町から祭の賑わいの中にやって来るのと同じように、私たち人間は別の世界から輪廻転生してこちらの世界にやってくるのです。そして、ある人は栄光を求め、ある人は富を求めるのですが、その一方で、そういった事は全く無視して、この世の成り立ちを熱心に観察する数少ない人たちがいます。彼らは、自らを英知の愛好者すなわち哲学者と呼んでいます。祭りの場では、自分のためには何も求めずただ見物する人たちが最も生まれの良い人たちですが、それと同じように、人間世界ではこの世の成り立ちを観察して認識することは、あらゆる営みの中で最も優れたことなのです」と。

四 [10]  しかしながら、ピタゴラスは哲学という名前を発明しただけでなく、哲学を発展させた人でもあります。フリウスでの会話ののち彼はイタリアに来て、いわゆるマグナ・グラエキアの住民と社会に優れた制度と文化をもたらしました。彼の教説については、おそらく別に述べる時があるでしょう。太古の昔からソクラテスの時代に至るまで、哲学者たちは数学と運動の法則と、万物の起源と帰結を扱っていました。また彼らは星の大きさと距離と軌道などあらゆる天体現象を熱心に研究していたのです。それに対して、アナクサゴラスの弟子であるアルケラオスに教えを受けたソクラテスは、初めて哲学を天上の世界から引き下ろして町に住まわせ、さらには家庭の中に招き入れて、哲学を人生と倫理と善悪の研究へ向かわせたのです。

[11]  ソクラテスは複雑な議論の仕方で様々なテーマを扱っただけでなく、偉大な人格の持ち主でした。その姿はプラトンによって記憶され書き留められて永遠に伝えられています。ソクラテスの影響を受けて、様々な学派の多種多様な哲学者たちが生まれました。その内で私が主に師事している学派は、ソクラテスが属していたと思われる学派です。したがって、私は自分の考えを自分からは言わずに、人の間違いを正して、あらゆる議論の中で、何が最も真実らしいかを追及してきたのです。この方法はカルネアデスが実に鋭くかつ雄弁に擁護したものなので、私は他の多くの場合だけでなく、今度のトゥスクルムにおいてもこの方法に従って議論することにしたのです。四日間の対談の内容はこれまでの巻に書き写して君に送ったとおりです。そして、五日目に私たちは同じ場所に腰を下ろして、何について議論するかを次のようにして決めたのです。

五 [12]  甲 先生、私は幸福に生きるためには徳だけで充分だとは思えません。

乙 これは困ったね。僕の友人のブルータス君は徳だけで充分だと言っているんだよ。それに、君には悪いが、私は君よりも彼の意見の方をずっと高く買っているんだ。

甲 もちろん、そうでしょう。しかし、今僕が問題にしているのは、あなたがどれほど彼を高く買っているかではなくて、今言った私の意見はどうでしょうかということです。これについて議論してもらいたいのです。

乙 まさか、幸福に生きるためには徳だけでは充分ではないと君は本当に思っているのかね。

甲 そのとおりなんです。

乙 ではどうだろうか。正しく、高潔に、賞賛に値するように、要するに、立派な生き方をするために、徳は充分な助けになるだろうか。

甲 もちろん充分な助けになると思います。

乙 とすると、君が立派な生き方をしていると思う人でも、その人を幸福な人だとは言えないと言うのかね。ひどい生き方をしている人でもその人を不幸な人だとは言えないと。

甲 そうです。というのは、拷問台の上でも正しく、高潔に、賞賛に値するように、つまり立派に振る舞えるからです。今、私が「立派に」という事がどういう事かお分かりでしょう。それは、冷静で威厳があって賢明で勇敢なことです。

[13]  これらの徳は拷問台にいる人にも見られますが、幸福な人生はそんな所には近寄りもしません。

乙 それは一体どういうことだね。冷静さと威厳と勇敢さなどの徳たちは拷問係の所に引っ立てられて、どんな罰も苦痛も喜んで耐えるというのに、幸福君だけは牢獄の外に残っていると言うのかね。

甲 あなたは私を納得させたければ、もっと別の言い方を探すべきです。その喩え話はまったく感心しません。ストア派の比喩は陳腐なだけでなく、薄い酒をさらに水で薄めたようなもので、何の値打ちもありません。一口嘗めただけでその不味さは分かりますよ。

確かに、拷問台にかけられた徳の一団の話は、立派な徳の姿を私たちにまざまざと見せてくれますから、幸福は彼らの元に急いで駆けつけて、彼らを決して見捨てたりしないと思いたくなります。しかし、徳の一団の姿から現実に心を向ければ、拷問台にいる人は果たして幸福かという問題は残ったままなのです。

[14]  ですから、今日はこの問題を考えましょう。ところで、現実の話ではなく喩え話を続けるなら、幸福に見捨てられて徳たちは不満なのではとのご心配には及びません。徳の中には思慮分別が必ずいますし、思慮分別は全ての善人が幸福とは限らないことを知っているからです。そして、思慮分別はマルクス・アティリウスやクイントゥス・カエピオーやマニウス・アキリウス(=戦争で敗れたローマの軍人たち)に起こった事を思い出して、幸福が拷問台に行こうとするのを押しとどめて、幸福は痛みや拷問の仲間ではないと言うでしょう。

[15] 乙 君がそのようなやり方で議論するのは構わないが、君が私に議論の仕方を指図するのはどうかと思う。それはともかく、これまでの私たちの四日間の議論には何か成果があったかどうか聞きたいね。

甲 もちろん成果はありますよ。それもかなりの成果があります。

乙 しかし、もしそうならこの問題はもうとっくに終わっていて、ほとんど結論が出ていることになるよ。

甲 どうしてそうなるのですか。

乙 なぜなら、理性を失い、無分別な感情に突き動かされて、心が高ぶって混乱と動揺に陥った人は、幸福な人生は送れないからだよ。

例えば、死は常に間近にあるし、痛みはいつやって来るかも分からないのに、死を恐れ痛みを恐れる人が幸福になれるわけがない。

さらにその人が、誰にでもある貧困と恥辱と悪評を恐れ、病気と失明を恐れ、さらには奴隷になること(これは個人だけでなく大きな国にもしばしば起きることだ)を恐れているとしたら、どうだろう。こんな恐怖を抱えて


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