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16]  さらに、その人がこうした未来の不幸に対する恐怖だけでなく、現にその不幸に遭って耐えている人はどうだろうか。その上に、追放、服喪、子供の死に出会うとしたらどうだろう。一体全体、こういう不幸に遭って悲しみに打ちのめされている人以上に不幸な人がいるだろうか。

さらに、次のような人はどうだろう。欲望の炎に燃えて、狂ったようにあらゆるものを激しく追い求め、満たされぬ欲望を抱えて、至る所で溢れるほどの快楽の盃を飲み干しながら、ますます激しい渇きに悩まされる。こういう人を最も不幸な人と言うのではないだろうか。

さらには、つまらぬことに気分を高ぶらせ、空虚な喜びにはしゃぎまわり、何も考えずに欣喜雀躍している人は、自分では幸福だと思っている分、それだけいっそう不幸ではないだろうか。

そして、こういう人たちが不幸な人たちだとすると、逆にどんな恐怖にも怯えず、どんな悲しみに溺れることもなく、どんな欲望にも駆り立てられず、どんな虚しい喜びにも有頂天にならず、物憂い快楽に陶酔することもない人たちは幸福な人たちだということになる。

例えば、海の穏やかさは、どんな微風にも波立たない状態だと言えるなら、心の平穏な状態は、心を動揺させるどんな感情も存在しない状態だと言っていい。

[17]  だから、もしも運命の気紛れにも人生の生老病死にも平然として、恐怖も不安も抱くことのない人がいて、もしその人が無欲で、虚しい喜びに己を失うことのないなら、その人は幸福な人であると言っていいのではないだろうか。

そして、もしもこれら全てが徳のなせる技だとするなら、幸福に生きるためには徳だけで充分だと言っていいのではないだろうか。

七 甲 そうですね。恐れも悩みもなく無欲で度を越した喜びに我を忘れることのない人が幸福であることは否定できません。それはあなたの言うとおりです。また、次の点も解決済みです。賢者はどんな感情にも襲われることがないのは以前の議論で証明されていますから。

[18] 乙 したがって、この件はもう片が付いていることになる。つまり、この問題は結論が出ていると思うね。

甲 大体はそうですね。

乙 しかしながら、そのやり方は数学者のやり方であって、哲学者のやり方ではない。というのは、例えば幾何学者が何かを証明しようとする時には、それと関わることが以前に証明されている場合にはそれは証明済みとする。そして、それを前提として、それまでに証明されていないことだけを扱う。一方、哲学者は自分が今扱っている問題が何であれ、それに関係することならたとえ別の場所で話したことでも全てに言及するからだ。

 そうでないなら、ストア派の人たちは、幸福に生きるために徳だけで充分かどうか尋ねられた時に、長々と語ることはないはずだ。「徳以外に良い事は何もないことは以前に証明済みだ。これを前提とすれば、幸福に生きるためには徳だけで充分である。そして、後者から前者が導かれるなら、前者も後者から導かれる。すなわち、もし幸福に生きるためには徳だけで充分なら、徳以外には良い事は何もない」と答えれば充分なのだ。

[19]  しかし、ストア派の人たちはそんなやり方はしない。例えば、彼らは徳と最高善を別々の本で扱っていて、そこから必然的に「幸福に生きるためには徳だけで充分である」となるにも関わらず、彼らはこの問題も別に論じている。

 というのは、どんな問題でも、それぞれ特別な説得力をもって特別に証明すべきだからだ。これほど重要な問題は特にそうする必要があるんだね。

 なぜなら、哲学がこれほど何かをはっきりと言明したことはないし、哲学が約束したことで、これほど素晴らしくて有益なことはないからだ。では、哲学は何を約束しているのか。何と、哲学の掟に従う人に運命から身を守る武器を与え、立派で幸福に生きるための砦を与えると約束しているのだ。つまり、哲学の掟に従う人に永遠に幸福な人生を約束しているんだよ。

[20]  しかし、哲学がこの約束をどこまで実行できるかは後で見ることにして、差し当たり私はこの約束は高く評価したい。

 というのは、クセルクセスは、あらゆる運命の恩恵を受けていたにもかかわらず、騎兵隊にも歩兵隊にも大艦隊にも、無尽蔵の金塊にも満足せず、自分を満足させてくれる新たなものを見つけて来た人に褒美を出したが、欲望には際限がないので、満足することがなかったからだ。

 私は「幸福のためには徳だけで充分である」ことにもっと自信が持てるようにしてくれる人がいたら、懸賞を出して呼び寄せたいと思うほどだよ。

八 [21]  甲 私もそう思います。しかし、ちょっとお尋ねしたいことがあるのです。いまお話しになったことの中で、一方から他方が相互に導かれるという話には私も同意します。つまり、もし徳だけが良い事なら、幸福に生きるには徳だけで充分である。それと同じように、もし幸福な人生は徳次第なら、徳以外に良い事は何もないことです。ところが、アンティオコス(=アカデメイア派)とアリストス(=アンティオコスの弟、アカデメイア派)に従っているあなたの友人のブルータスは、こうは考えていません。というのは、ブルータスは、徳以外に良い事があるとしても、幸福に生きるには徳だけで充分であると考えているからです(=善には心の善、肉体の善、運命あるいは外部の善の三種類あるとするアリストテレスらペリパトス派とアカデメイア派の考え方)。

乙 すると、君は私にブルータスに反論しろと言うのかね。

甲 それはお好きなように。私は進行役ではありませんから。

[22] 乙 ブルータスと私のどちらに一貫性があるかについては、後で話そう(=30節以下)。君の言う意見の相違は、しばしば私とアンティオコスとの間でもよくあったし、最近ではアテネで最高指揮官としてアリストスの家に泊っていた時、アリストスとの間でもあったことだ。私は「人が悪い事に取り囲まれている時には幸福にはなれないが、もし仮に肉体の苦痛と不運が悪い事なら(=ペリパトス派の言うように。23節参照)、賢者は悪い事に取り囲まれる可能性があることになってしまう」と言ったんだ。

 それに対して彼らは次のように言っている(この主張はアンティオコスは色んな所で繰り返しているものだ)。「完璧に幸福に生きるためには徳だけでは充分ではないが、幸福に生きるには徳だけで充分である(=心、肉体、運命あるいは外部の三つの善を完備した幸福をペリパトス派は完璧な幸福と考える)。たとえ完璧でなくても大体の内容から名前が付けられるものは沢山ある。例えば、力、健康、富、名誉、栄光などがそうで、これらは部分ではなく全体から判断される。それと同じように、幸福な人生も、たとえ何かが欠けていたとしても、大体の内容からそう呼ばれる」と。

[23]  今この説を詳しく紹介する必要はないが、私はこの主張は一貫性に


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