キケロ『善と悪の究極について』(序文)

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ブルータス君よ、これまで最高の叡智と卓越した学識を持つ哲学者たちがギリシア語で扱ってきた問題を私がラテン語の文章で表現しようとしたときに、私のこの努力が様々な批判に出くわすだろうということを私はよく知っていた。というのは、ある人たち、それもそれほどひどく無教養ではない人たちが、この哲学を学ぶことをまったく嫌っているからである。それに対して別の人たちは、哲学もほどほどにするならいいが、そんなに熱心に学ぶべきものではないし多くの労力を注ぐべきではないと考えている。

さらには、ギリシア語に精通している人たちの中には、ラテン語を見下して、ギリシア語を読むほうに労力を注ぐほうがいいという人たちがいるだろう。最後に、この種のものを書くのは格好はいいが、私のような立場の人間には相応しくないから、もっと別のものを書いて欲しいという人たちがいるだろう。

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私はこれらの人たちの全部に対して簡単に反論しておこうと思う。哲学嫌いの人たちに対する答えは、ホルテンシウスが哲学を批判し非難したときに哲学を擁護し賞賛するために書かれた私の本の中ですでに充分述べてある。この本はブルータス君のように立派な判断力があると思われる人たちに受け入れられたと思うが、人々の哲学への情熱を掻き立てただけでそれを維持することが出来ないと思われてはいけないので、私はこれからも哲学の本を書くことにしている。

一方、哲学を学ぶのはとても良いことだけれど節度を持ってやるべきだという人たちについて言うなら、彼らが求めている節度とは非常に困難なものである。なぜなら、一旦自由に走り出した者を引き止める事はできないからである。私はこのように無限の探求に制限を課そうとする人たちや、発展すればするほど進歩する物に中庸を求める人たちよりは、哲学などきっぱりとやめておけという人の方が余程正しいことを言っていると思うのである。

[3]

というのは、もし知に到達することが出来るのなら、我々はその知を手に入れるだけでなくそれを楽しむべきだからであり、また、もし知に到達するのが困難なら、真理を発見するまでその探求をやめることはないからである。我々の探求するものが最高のものであるなら、その探求に飽きるということは不名誉なことである。さらに言うなら、私が著作を楽しんでいるのに、それをやめろというほど意地の悪い人がどこにいるだろう。また私が著作に苦しんでいるとしても、そんな他人の努力に限度をもうけようとする人がどこにいるだろう。

例えば、テレンティウスのクレメースは、新しい隣人が「掘り返したり耕したり何か担いだりしている」のをやめさせようとしたが、それは親切心からでる。ーー彼は隣人の努力をやめさせようとしたのではなく、召使がするような仕事をやめさせようとしたのであるーーそれに対して、私が好きこのんで背負いこんでいる苦労を見て腹が立つという人は単なるお節介屋でしかないのである。

[4]

ラテン語で書かれたものを見下しているという人たちを満足させるような反論をするのは、これまでの人たちの場合よりも難しい。というのは、彼らについて


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